受け継いだものに目をとめ。

2011.7.17 主日礼拝 創世記1:26〜
 今日の日本では、家を守るとか土地を守るとか、そんな考え方はほとんど言われなくなりました。実際に家や土地を手放して、別の土地へ移り住み全く違う関係の中で生活する。そういうことが普通に行われる社会になった。家族とか先祖、代々の土地とか家業、それらは人を縛るものだと否定的に言われる。むしろ自分自身の在り方を求めればいいのだ。最近の親たちは子どもが家を出て自分のやりたいことをやるのを良いこととして、「あなたが好きにやればいいのよ」、と言う場合が多いようです。親としてもこどもに縛られたくない。

 しかし過去から受け継がれて私たちを縛っておるものは、実は自分が今在る根拠でもあるのです。私たちは自分を縛るという面にだけ注目し、それらは古い考え、生き方、価値観と位置づけ、それから解き放たれることが今日的生き方のように教えられてきました。いま自分がここにあるのは、その過去からずっと受け継がれてきたものの上にであると、その部分を同時に扱ってこなかった。単純に言えば親があって自分があるし、そのまた親があって親があり、そして自分がある。聖書が語るように与えられるという仕方で、ずっと受け継がれて今の自分が存在しておる。そこに目を向けることを私たちは軽んじ、そうやって何十年も経った時に、いま私たちの国は大きく変わりましたね。
 JRの電車に乗って長距離の旅をすると、窓から見える風景がこの20年ほどで本当に大きく変わってきたと感じます。沿線の林、雑木林とかが荒れてしまった。森が荒れる、田畑が荒れる、或いはまた町から人々がいなくなる。人々が便利さを求めて、或いは自分自身の生き方を求めて出ていくのです。ずっと受け継がれてきたいろいろな業がすたれてくる。後継者がいないと聞いて久しいことですよね。それは社会や国の価値観が大きく変わったということなんです。

 今の命があるのは、いつもその命の前にあるものによるのだ〜私たちの社会はその真実をなおざりにしてきたんじゃないか。本来、命はいつもその前にあるものに依っている。なのにそのことを切り捨てて、あたかも今ある命だけで成り立っておるかのように、生きていけば良いかのように捉えるところに、実はごまかしがあるのです。私たちの生活や社会が、そのごまかしの上に成り立っているなら、その危うさとはどれほどのものでしょう。現代は、その意味で、まことに「うかつな時代」と言わねばならない。出自に対する感性を欠いているところに、今日の伝道の課題が見えています。

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