『力ない者が力与えられた』者、それが私たちです。

2011.8.7 主日礼拝 創世記3:1〜
 神様は私たちの命を造りお与えくださっただけではなく、その命を歩んでいくために必要な知恵も力も与えてくださいました。また一見苦しみに見える労苦をも、生きる力を蓄えるものとして用いてくださる。そして私たちの恥を拭い、やり直させてくださる、そのことがこの創世記の3章において私たちに示されている神様の真実なのです。人間が自分を恥じ卑下する、神様はそこから私たちを回復し、もう一度祝福の命へと生きるものへとやり直させてくださる、救い出してくださる、そのお心をずっと持ち続けてくださるし、そのように私たちに向き合ってくださるのです。
 私たちはこの神様の御旨に触れたならば、もう自分を否むのを止めなければならないのです。自分を否むようなすべての言葉から、すべての思いから遠ざからなければならない。立ち上がらなければならないのです。私たちはアダムとエバ同様、自分を見て恥じたり、責めたり、卑下したりする思いをどうしても持ってしまうことがあるし、自分の思いと違う、理想と違う自分の現実に打ちひしがれることもある。けれども、それは私たちの見方です。神様がこの私たちをご覧になるその世界は、それとは違うのです。
 私たちは弱い者かもしれない。弱い者だと言うかもしれない。しかし、その弱い者が神様の恵みによって強められているのが私たちです。弱い者だけれども、弱い者で終っているんじゃない。神様のお助けによって強められているのが、私たち一人一人です。私たちは力のない者です。でも、それで終りじゃない。その力のないはずの者が神様によって生きるに必要な術を与えられ、必要な力を与えられているし、様々な課題や使命を担う力を与えられているのが私たちです。力のない者が神様によって力を与えれているのが私たち。そこに立たなければならないのです。自分は罪に満ちて、破れに満ちた者である。それを誰も否定することはできないでしょう。でもそのような者がその破れを繕っていただいて、欠けを補っていただいて、罪を贖っていただいておるのが私たちなのです。
 私どもは、神様を信じる者はいつもここに立たなければならない。弱い、力がない、破れておる、欠けておる、そこは私たちの立つべきところではありません。そこから、なお強められ、力を与えられて、欠けを覆われて、救われておる。いつも私たちはそこに自分の真実がある、或いは私たちの今生きておる現実があるということを捉えて、信じて、そこから歩み出し、また考えていくものでありたいと思います。

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