土の塵が、しかし祝福されている。

2011.7.24 主日礼拝 創世記2:4〜
 ここを読むと私は神様のお言葉が聞こえてくるような感じがするのです。創世記の1章は神様が言葉を発せられるでしょう?「光あれ」って。そして「我々にかたどり、人を造ろう」っておっしゃる。そういう言葉が2章には書いてないですけれども、私はここのこの「命の息を吹く入れる」という表現を読むとね、息をふーっと、ふーっとも書いてないんですけれども、吹き入れられるとの言葉を読んだ時に、神様が「さあ生きなさい」、そうお言葉をかけてくださっておるような感じがするのです。つまりただの土くれじゃないのです。土くれなんだけれども、神様がその土に命を吹き込んで「さあ、生きるんですよ」と私たちを立たせてくださった、そういう映像が浮かんでくる。如何でしょう。皆さんもそのように感じていただけるでしょうかね。
 弱さや小ささを憂うるばかり、そういう話じゃないんです。弱いからだめだ、虚しいんだ。脆いから、儚いからだめなんだ、そういう話じゃない。確かに一方で人間の弱く儚い姿、本質を見ながらも、でもそれだけで人間を語ることはできないし人間が人間として生きることにはならない。弱く小さなものが、しかし神様によって生きるようにしていただいておる。神様が私たちの命を祝福をもってお与えくださっておるということを示しています。
 土くれ、土の塵が神様によって祝福の命をいただいておる。この全く正反対のような二つのことが私たち人間の中に同時に存在している。神様が命の息を吹き込んで、そして生きるものとなったということは祝福の命に輝いておる、土の塵なのにですよ。汚い、やっかいな土の塵にしか過ぎないものが、しかし命によって輝いておる。相反するものが神様の不思議な計らいによって同居しておる、それが人間です。
その二つのどちらか一方が見失われると、人間の生き方は輝きを失なうのです。人間が人間として生きることが、その本来的な意味でできなくなるのです。

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